養蚕業
蚕(オコサマ)を飼育して繭をつくらせて糸をとるという仕事は、かなり昔がら行なわれています。小山市でも各地区で養蚕を行なっており、中でも生井地区(生井村)は明治後期に盛んに行なわれていました。しかし、第二次世界大戦後、食糧確保のために桑畑が開田されて養蚕農家が減少し、さらに昭和40年代に行なわれた土地改良によって生井地区での養蚕業は途絶えました。
催青と掃立て
本来、蚕の卵は年に1度だけ孵化するものですが、酸溶液に浸漬する「浸酸」によって孵化を促すことができます。また、冷蔵保存することで孵化の時期を遅らせることが可能なので、年に何度も生産することが可能になります。今では年に7回人工孵化させる農家もあるそうです。その孵化する直前に卵が青味を帯びることから孵化させることを「催青」と呼んでいます。催青には、催青箱という専用の箱を使い、棚に1枚ずつ薄い和紙で包んだ種紙を入れ、温度を26〜27℃程度に保ちながら2週間ほどすると孵化します。温度管理がとても重要で、昔は炭火などで温めて温度が一定になるように朝と晩には種紙を入れ替えたりしていたそうです。また、孵化させる時期によって呼び方が異なり、5月初旬の春蚕(はるご)から始まり、夏蚕(なつご)、初秋蚕(しょしゅうさん)、晩秋蚕(ばんしゅうさん)、晩々秋蚕(ばんばんしゅうさん)、初冬蚕(しょとうさん)と呼ばれています。明治時代の種の生産は、多いところで年3回(春蚕、初秋蚕、晩秋蚕)だったといわれています。これは、蚕のエサである桑畑の面積、労働力、他の作物との兼ね合いによって決まっていたようです。桑畑1反(10a)に対して2〜3万粒の種が適当であるとされていましたが、桑の木は15〜20年で新しい苗に替えることや、霜害や台風などの影響で桑の収量が減ってしまうこともあるため、その都度調整が必要になります。
卵から孵化した蚕の幼虫は、種紙の上に蚕網(かいこあみ)と呼ばれる目の細かい網に呼び出し桑(よびだしくわ)と呼ばれるやわらかい桑の葉を細かく刻んだものをのせて蚕が這い上がるのを待ちます。網ごと養蚕籠(ようさんかご)や蚕籠(こかご)、オコカゴと呼ばれる竹製の籠に敷いた蚕座紙(さんざし)の上に掃立てて育てました。これを「掃立て」と呼んでいます。かつては、種屋から種紙を購入して農家で育てていましたが、近年では共同飼育所で第3齢まで育てた蚕を養蚕農家に配る配蚕(はいさん)という方法で行なわれています。生井では、荒籾という種問屋が種紙を販売していたそうです。
蚕の飼育
通常、蚕は4回の脱皮を繰り返した後、繭をつくり、蛹(さなぎ)になります。脱皮の前には、桑を食べるのを止めて準備する期間があり、それを「眠」と呼んでおり、桑を食べて活動する期間を「齢」と呼びます。卵から孵化すると第1齢、第1眠(獅子休み)、第2齢、第2眠(鷹休み)、第3齢、第3眠(船休み)、第4齢、第4眠(庭休み)、第5齢(ニワオキ)と成長し、第5齢の最後は桑を食べなくなり、体がアメ色に透きとおり、糸を吐いて繭をつくり始めます。これを昔の人は「シシ・タカ・フナの節休み、ニワの上がりにまゆつくる」というふうに憶えていたそうです。
かつては「棚飼い」といって約10段もあるコマイ、コノカと呼ばれる棚を作り、その棚の上にオコカゴをのせて蚕を飼育していました。そしてクワクレの時は棚からオコカゴをカゴダイ(給桑台)に移して桑の葉を与えます。クワクレをする際にウラトリと呼ばれる除沙(じょさ)を行ないました。除沙とは、蚕の大きさに合わせて網目の大きさや材質の違う糸網や蚕網、縄網と呼ばれる網をかぶせ、その上から新しい桑を与えて蚕を移動させて食べ残しの桑やコクソ(蚕糞)を取り除く作業のことです。
桑の葉は、葉だけを摘む方法と新しく伸びた枝を切り落とす方法がありました。葉だけを摘む場合は、直接手で摘むか、桑摘み爪を利用して摘んでいました。枝の場合は、鎌や剪定鋏などで切り落としていました。摘んできた桑の葉は、蚕の成長にあわせて桑切り包丁や桑切り機などで切って与えました。稚蚕のときには1日に5〜6回もクワクレをする必要があり、また季節によって給桑(きゅうそう)のタイミングが違うので、その時期の養蚕農家は多忙な日々を送っていたようです。
上蔟(じょうぞく)
蚕も第4眠からさめて第5齢になると8〜10日間桑を食べ続けた後はまったく食べなくなります。この頃の蚕は、体が透き通ってきて繭をつくろうとするため、マブシ(蔟)と呼ばれる用具に移す作業をします。これを「上蔟」といいます。小山市域では、これを「アガル」、「ヅアゲ」などと呼んでいます。
上蔟には二通りの方法がありました。ひとつは、オダテと呼ばれる藁で作った薄いムシロをオコカゴの上に敷き、その上に蚕をのせて、さらにその上にまぶしを置きます。するとかぶせたマブシの中に自然と蚕が入っていき、繭をつくります。もうひとつの方法は、オコカゴの上にいる蚕を1匹ずつキバチと呼ばれる木製のお盆状になった器に拾い上げ、マブシの上からまんべんなく散らして繭をつくらせました。ちなみにマブシに上がった蚕は、一晩で白い薄い繭形をつくるのですが、その直前に最後の排泄をするため、下の棚を汚さないために新聞紙などで覆っておきました。
マブシには、縄蔟(なわまぶし)、藁蔟(わらまぶし)、回転蔟(かいてんまぶし)などがありました。その藁蔟を編む道具を蔟織り(まぶしおり)といいます。
収繭(しゅうけん)
上蔟した繭は、ムシロの上でマブシからひとつひとつ手ではずし、毛羽(けば)を取りました。最初は手で作業を行なっていましたが、昭和8〜9年頃から毛羽取り機を使用するようになりました。毛羽取りを終えた繭は、繭籠に入った繭袋(まゆぶくろ)に入れて馬車で仲買人のいる小山、結城、古河へと運ばれました。1籠は7〜8貫(約26〜30kg)、大きいもので12から13貫(約45〜49kg)は入ったそうです。昭和7〜8年頃の繭の売買価格は、1貫目(3.75kg)1円ほどだったたそうです。
桑の品種
桑は、クワ科クワ属に属する落葉の低木、または高木で蚕の飼料として欠かせないものです。かつての養蚕では、川の土手や田畑の畦などに植えてあるタカグワと呼ばれる高木が使われていました。そのため、ハシゴをかけて木に登ったり、桑の枝にカギを引っ掛けて枝を手元に引き寄せて手摘みしていたので大変な作業だったようです。その後、養蚕の規模が大きくなるにつれて低木の木を植えるようにまりました。
小山市で栽培されていた桑は以下のような品種がありました。
市平(いちべえ)
早生桑で稚蚕の時に与える
魯桑(ろそう)
中国産の桑で葉が丸く大きい。アクが強いのでニワオキ(5齢)してから与える
鼠返し(ねずみがえし)
葉が小さいので大量に摘まないといけない
十文字(じゅうもんじ)
葉が小さい
多胡(たご)
他の品種と比べて一番良い桑だった
改良鼠返し(かいりょうねずみがえし)
現在多い品種
その他にも、一之瀬(いちのせ)、赤城(あかぎ)という品種もあったそうです。