養蚕業・生井桑摘み唄

日本全国のみならず世界を風靡した生井の蚕種

 養蚕は、江戸後期の開港と共に生糸や蚕種が輸出品の中で重要な位置を占めるようになり、小山市域でも桑畑の開墾が始まりました。生井村も渡良瀬遊水地の桑畑で収穫した桑葉を舟で運ぶなど、旧思川の舟運を活かし、養蚕業が盛んに行われていました。その中でも下生井の荒籾甚兵衛(あらもみじんべえ)氏(天保12 年~明治11 年)(1841年~ 1908年)は、明治27 年(1894 年)に「養蚕教草(ようさんおしえ)」を出版し、蚕種業や養蚕業についての手引書として多くの蚕種、養蚕農家に影響を及ぼしました。また、その孫である荒籾角太郎(あらもみかくたろう)氏は、15 歳で家業に従事し、郡内屈指の蚕種製造枚数を誇る実績を残しました。そこで得た実益を元に「富基館(ふうきかん)」という養蚕伝習所を設立し、多くの養蚕教師を輩出し、全国の派遣先から高い評価を得ました。一方、蚕種業においても「角又(かくまた)」という質、量ともに優秀な新種を作り、日本のみならず、世界に日本の養蚕技術の高さを知らしめることになりました。

掃立て
掃立て

蚕種業

 

明治時代の生井村では、蚕種業を生業とする農家が多く存在しましたが、明治から大正にかけて蚕種製造枚数は増えているものの製造する農家の戸数は減っていきました。それは、技術革新により、規模の小さな蚕種農家が淘汰され、大規模蚕種家の時代へ移行したことをあらわしています。

下生井荒籾家の養蚕風景(明治45年)
下生井荒籾家の養蚕風景(明治45年)

養蚕業

 

小山市における養蚕業は、明治時代に盛んに行なわれていましたが、中でも生井村は養蚕をしている農家の戸数が絹村と並んで多かったと記録されています。しかし、昭和50年(1975)をピークに桑の作付面積が減少しており、現在では海外からの輸入品に押され、日本の養蚕業は衰退しました。

生井桑摘み唄保存会(生井桑摘み唄踊り伝統文化親子体験教室)
生井桑摘み唄保存会(生井桑摘み唄踊り伝統文化親子体験教室)

生井桑摘み唄

 

桑摘み作業は単調な作業のため、疲れや眠気を和らげるためにカイコビョウがそれぞれ自由に歌詞をつけて唄を歌いながら桑摘み作業をしていました。その「カイコ唄」に踊りを加えて誕生させたものが「生井の桑摘み唄」です。

伝習所

 

明治20年代、蚕業伝習所が栃木県内各地に設立されました。小山市域には、生井村に下野蚕業伝習所と富基館伝習所、絹村に絹盛社伝習所が設けられました。生井村に設立された下野蚕業伝習所は、明治23年(1890)4月に発足しました。また、富基館伝習所は、荒籾家が私設の教育施設として設けたもので、養蚕教師の養成を行なっていました。

豊蚕祈願

 

養蚕の歴史は古く、今日のような生産技術もなく、様々な自然条件によって繭の収穫量に影響を与えてきました。そのため、繭の豊蚕を祈願した神事や豊蚕であったことを感謝する祝事が行なわれてきました。