豊蚕祈願
養蚕農家では、豊蚕を願って様々な行事が行われてきました。1月14日には、正月の飾り物をさげ、米粉や餅などで繭の形の繭玉をつくり、ナラ、ハン、ミズ、カシの木の枝や桑の枝に刺し、これを年神様、お竃様、大神宮様などにお供えしました。そしてこの繭玉を翌15日のドンド焼きの火で焼いて食べると風邪を引かないとも言われていました。また、蚕が上蔟するとマブシ祝いとか上蔟祝い、あるいは蚕祝いと呼ばれるお祝いをしました。そして、この時期には多くのカイコビョウの人達にも酒や赤飯、野菜の煮物、鰹などの魚の切り身がふるまわれました。しかし、この時期の座敷には蚕の棚が作ってあるので台所や土間などにムシロを敷いて行なっていたそうです。その他にも掃立てた時には「掃立て祝い」、繭の出荷した時には「収納祝い」を行なったそうです。
蚕影神社
養蚕農家では、オコサマの神さまが祀られている蚕影神社で受けた掛軸を床の間に掛けておきます。そして、年に1度、主に養蚕が始まる前の春先頃、神社で受けてきたお札を大神宮様に祀っておきます。
蚕影神社は、茨城県つくば市神郡(かみごおり)にあり、祭神として稚産霊神(わかむずびのかみ)を祀っています。稚産霊神について『養蠶秘録口伝書』の中の“天竺霖異大王の事”によれば、北天竺(インド)の仲ツ国にいた金色姫が、継母に妬まれ、獅子吼山に捨てられます。しかし、獅子に乗って帰ってきます。次に鷹群山に捨てますが、そこでも鷹に育てられて無事戻ります。海眼山という島にも流しますが、漁夫に助けられ戻ります。最後は庭に深く穴を掘って姫を埋めますが、土の中から光り輝くので桑の木の船に乗せて海に流します。(船に乗せたのは父親という説と継母という説があります)そして、この船は常陸國豊良湊流れ着き、浦人が助け介抱しますがやがて亡くなり、その霊魂が蠶(かいこ)になったといわれています。
蚕影神社は、日立市にある「蚕養神社」と神栖市にある蚕霊神社とともに「常陸国の三蚕神社」と呼ばれています。
養蚕図絵馬
豊蚕祈願として絵馬が奉納されることがありました。その中で小山市文化財に指定されている「養蚕図絵馬」が高椅神社に収められています。この絵馬は、縦115cm、横219cmの大絵馬で明治12年に地元民によって奉納されました。その絵馬には、掃き立てから卵を種紙に産ませるまでの過程が描かれており、当時の養蚕の様子が伺われる大変貴重な資料となります。
養蚕図
二幅一対の絵で、掃立てから蚕を育て、糸をとり、真綿を作るところまでを描いたものと、桑の採集、上蔟、繭の検査、真綿を広げるところを描いたものが対になっています。作者の三代広重は幕末から明治にかけて活躍した絵師で、「第日本物産図会」の作者として有名です。