伝習所

養蚕教草
養蚕教草

明治20年代、生井村に設立された下野蚕業伝習所と富基館伝習所は、荒籾甚兵衛氏が著した『養蚕教草』という技術普及書ともに生井村の養蚕技術を全国に広める功績を遺しました。

下野蚕業伝習所

 

ここに掲載されている話は、明治23年(1890)4月に発足した下野蚕業伝習所について書かれた「蚕業伝習所」に収められている田村喜重郎氏のインタビューを再編したものです。

下野蚕業伝習所の間取図(出典:下野蚕業伝習所)
下野蚕業伝習所の間取図(出典:下野蚕業伝習所)
 

当時の建物の様子について

 大きな家で8畳の部屋が4間続いていた。要するに十文字の部屋で、後ろの2間は寝室、前の2間は蚕の部屋で2階は蚕室であった。向きは富士西、蚕室は全部富士西で、東向きはあまりなかった。碓井要作さんの家では仕事を縮小してきてからは、大きい蚕室を網戸小学校へ寄付した。(網戸小学校ではそれを改造して校舎がわりに使っていた)

 伝習所を作るについては、池貝さんがもともとここにいて、何かの都合で東京へ行った。もともとイリノウチと言って、蚕もやらず、百姓もやらずにいて、引っ越してしまったので、その跡を下野蚕業伝習所として荒籾角太郎さん等が始めたようです。

 

伝習所の様子について

 伝習所には70人も80人も若い人たちがいた。蚕室は大きいのが1軒あった。私が当時、高等1・2年の頃だが、桑は足利の渡良瀬川沿岸(今は工業団地になっている)にいっぱいあって、あの片からトラックで持ってきた。トラックはめずらしかった。大正7年(1918)に電気が入った。ウチでは蚕室に1部屋、60しょくの電気を3個つけた。明るくて映画館のようだ、旅館のようだと笑われた。冬場は、試験をするとか、蚕具を作ったりしたようだ。養蚕期にやってくる伝習生もいて、冬になると帰ったようだ。

 伝習生は、私が6年生の頃では、那須郡のタサキ村にタシロ・セイジさんという方がいた。頭が良くて、書き物もたくさんあった。荒籾さんの所には20人位だった。伝習生は、蚕室の端に住居があってそこに寝泊まりしていた。食事は荒籾さんのところでとっていた。蚕は1部屋に60〜80枚の篭があって、それを男と女が責任者(男は生徒で女が手伝い人)となって、キュウソウ(給桑)、ジョシャ(除捨)、ブンパク(分箔)を主な仕事としていた。。間に親方が見にきていた。

 蚕種だが、角又(かくまた)《荒籾角太郎・明治31年(1898)による新品種》は、肉が厚く、虫に丈夫だった。ウチで作ったのは、清白(しんぱく)だった。日本種と中国種(当時は、シナ種と称した。今日では死語)、日支交配として田村清吉が作った。そうしたことが蚕種家の仕事だった。4種類をかけ合わせると8種類になる。一代交配、三代交配、などと良い種を作るようやってみたくなりものだ。蚕を1匹ずつオスとメスに分け繭を作らせ、ガになったところで交配させるわけだが、オス・メスが一緒に出ないでどちらかが遅れたりすると大変で、交配ができない。だからどこでも地下室があって、抑制したり、早めたりしながら調整をしていたのだ。そう言うことで蚕種家は大変だった。種は、顕微鏡で見て、病気のものはダメ。合格すると、合格印が押されて販売された。販売は販売員か製造者しかできなたかった。

 

仕事はいつまでやっていたか

 私の所では昭和10年まで種屋をやっていた。儲はなかったが。この村では殆どの人が蚕に関係した人だった。道具屋、種屋、繭を売る人…。蠁蛆病(きょうそびょう)といって、蠁蛆(ハエのうじのようなもの)が桑に卵を産みつけて、それを食った蚕が繭を作ってもサナギを食い尽くして繭に穴をあけてしまうのだ。蠁蛆は繭を出てくると床の下など暗い所へと逃げるので、縁の下に金網を張り、明るい所に出口を作っておいてそこで捕らえたりしたものだ。桑は遊水池の向こうまで切りに行ったものだ。蚕種仕事は忙しかったが、足尾銅山で年が明けたとか、佐渡金山で年が明けたと言う人がやってくる。そう言う人は弁当を持たず、マスヤなんかへ立ち寄ると、そこで働く所を紹介する商売をしている人もいた。その人の紹介状を持っていくと、安心して使ってもらえると言うこともあった。蚕種は埼玉県などに仲買人を通してもっていった。桑は水をかぶると泥をかぶり、硫酸カリを充分に含むのでいい桑ができた。

 

そのまま生井の住人になったという人はいたか

 働きに来ていて、そのまま居ついてしまった人も多い。例えば、Kさん宅・Aさんの親・Sさんの先代は夫婦で来ていて、そのまま住みついている。今は、三代目かな。開墾すれば自分の土地になったりした時代だろうから、そう言うことも出来たのかな。

 当時の若い衆は威張っていてよく喧嘩をしていた。すると部屋(藤岡町部屋)の船頭が応援に来た。船頭は気が荒かった。タカセ(高瀬舟)が上がって来るとき、川がヨタッていると砂に乗り上げたりすると大変なので、竹を突き通したり、大声で怒鳴り合う。どうしても気は荒くなる。楢期(村)は大半が砂利取り業だった。青木さんは60ぱい位の舟を持っていた。乙女の青木さんもおられて、あの辺も景気が良くて、乙女河岸には6,7軒の茶屋があった。